10代の途中から絵(当時は漫画)ばかり描いて、人との交流を避けて生きてきた私が成長過程で克服しなければならなかった問題のひとつに、
「自己と他者」という課題がありました。私にとって、この問題を分かり易くしてくれたのは、永井均氏の「他者」という文章でした。
『自分と他人は違う。自分のことはよくわかるが、他人のことはよくわからない。今自分が何を考え、何を感じているか、それは手に取るようによくわかる。
しかし、他人が何を考え、何を感じているか、これは手に取るようにはわからない。この自他の非対称性は、誰もが知っている事実である』
というような書き出しで始まる少々難解な哲学的な考察です。全文を引用するわけにもいきませんし、結論だけ書きますが、私はこの考察によって
初めて(!)、≪他者というのは、自分が推量できる範囲でしか見えてこない≫ということを理解したのです。
自分の視野や人間に対する理解が狭ければ、他者はその狭い範囲内でしか理解することができない、ということを、です。
つまり、自分自身を観察して、人間という生き物の習性や反応、賢さやズルさをそれなりに理解できていないと、
他者のほんの一部分しか理解できないことを知りました。 そして、じつはこの「他者」との関係は、「社会」との関係においても同じことがいえます。
「社会」もまた、自己の内側が充実してこそ、その豊かな側面を見せる(把握できる)のです。
もし「他者」や「社会」が貧しくみえるなら、「他者」や「社会」を責める前に、自分の視野や人間に対する理解度を疑ってみるべき筈です。
そのうえでなら、注意を喚起すべきことや、正すべきことが見えてきても冷静に捉えられ、その問題が「被害妄想」となって暴走することはないでしょう。
このことは、長い間私の個人的な問題だったと思っていましたが、秋葉原の事件などをみると、この自他の関係性について、教育過程のどこかで
一度は考えてみる機会を与える必要があるのではないか、と思えてなりません。
(もしかしたら、友人関係の豊かな中で育った人ならば、日常の経験の中から自然と身につく当たり前のことなのかもしれませんが。)